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國吉 房次、沖縄の漆喰シーサーについての一考察

「モダニズム」と「民芸」の止揚の試みー より、

第一章 漆喰シーサーの歴史と評価、

第二章 漆喰シーサーの現在 の抜粋



第一章 漆喰シーサーの歴史と評価 

第1節 沖縄におけるシーサーの起源と歴史
 沖縄におけるシーサー(獅子像)彫刻の歴史をたどれば、15世紀後半まで遡る。尚真王代、浦添ようどれ石棺に獅子像が刻まれたのが嚆矢とされ、 以後立て続けに、首里城の瑞泉門や歓会門、円覚寺放生池石橋欄干、玉御殿の玉抱き獅子や子抱き獅子、首里末吉宮の獅子像など、王宮や寺社仏閣の建築装飾として石製獅子像が作られている。これら初期の獅子像は、中国で作られたものか、あるいは中国から渡来した石工が沖縄で制作したものとみられている。14世紀中期以降、中国と琉球は冊封関係にあり、中国側からは冊封使を乗せた御冠船が、琉球側からは進貢使や留学生を乗せた進貢船が盛んに往き来した。そのような交流を通して、獅子像彫刻の様式や技術も、中国から直接導入されたと考えられる。なお、獅子像彫刻そのものの根源は、遠くエジプトのスフィンクスまで遡るとされ、古代オリエント、インド、中国とシルクロードを経て、沖縄に至ったことになる。
 また、琉球王国は、「万国津梁之鐘」にあるように、東南アジア方面ともさかんに交易を行ったので、インドネシアのボロブドゥール遺跡やバリ島の獅子像彫刻、カンボジアのアンコールワットのクメール様式の獅子像など、インド洋を経由した様式にも、当時の琉球人は接したはずである。実際に、沖縄の獅子舞(シーシケーラシ)は、インドネシアの獅子舞の影響が色濃く感じられる。
 これらの点から考えて、沖縄の獅子像彫刻は、直接的には中国の影響を受けているが、多元的な起源を持つチャンプルー様式ということができる。つまり、沖縄の獅子像は、他の造形文化と同様、いろいろな様式を折衷しながら、沖縄らしい自由な造形の展開を遂げてきたのである。
 以上で見てきた寺社仏閣や王宮の獅子像は、権威の象徴として据えられた意味あいが強いが、次に民間レベルでの獅子像彫刻について考えたい。民間レベルでの獅子像は、17世紀末、東風平町富盛に、火伏せの目的で風水に則って石像獅子が作られたものが、記録に残る最古のものとみなされている。この獅子像を設置した後、富盛集落では実際に火事が起きなくなったので、庶民から降魔除災の守護神としての信仰を集め、南部を中心に各村落ごとに獅子像が作られるようになってゆく。

(図2)東風平町富盛の石製村落獅子 1689年製作
 


 さらに、祖先崇拝の篤い沖縄では、厨子ガメ(骨壷)を「死後の住居」とみなして立派につくる習慣があり、生きている間は茅葺きに住んでいても、厨子ガメは豪華な瓦葺きの王宮や寺院を模して作ったので、鬼瓦をかたどった獅子面も配された。古いものでは、18世紀中頃に制作された厨子ガメに、獅子面を確認できる。厨子ガメの獅子像は魔除けと装飾をかねたものとして、時代を経るにつれ形も複雑になり、装飾も華美になっていく。レリーフの獅子面は、やがて頭像(チブルシーサー)になり、ついには全身像として作られるようになっていった。そうした中で、厨子ガメを作る陶工の腕が磨かれていき、後に獅子像を独立させて作る素地が準備され、また、現世で住む家の屋根にも獅子像を置こうという発想が、生まれたと推測される。
 そして、実際に獅子像が民家の屋根にあがったのは、19世紀中頃であろうと推定されている。また、世界のほとんどの地域では、獅子像は専ら貴族の墓陵や宮殿、寺社仏閣の守護神としてのみ用いられているのだが、沖縄においては、民間にも普及、浸透した点は、特筆すべきことといえよう。


第2節 赤瓦屋根と漆喰シーサー
 「もしこの屋根が無くなったとしたら、沖縄はその美しさの大半を失うでしょう。」と、戦前に来沖した柳宗悦は語った。彼は、赤瓦と石垣、石畳が続く首里の街並を、日本で一番美しい都だと絶賛した。
 現代においても、県の内外をとわず、赤瓦屋根は沖縄を象徴する風景として位置付けれている。沖縄戦後画壇の重鎮の一人、大嶺政寛は、沖縄のロマンを赤瓦屋根の続く街並に求め、戦後それがほとんど見られなくなった時代においても、その風景を探しにわざわざ八重山まで出かけ、主題として描き続けた。
 ここで、沖縄の赤瓦の歴史に触れる。まず、その起源だが、16世紀後半に中国より渡嘉敷三良が渡来、明式の瓦製造技術を伝えたことが、現在の本葺瓦製造に結びつくとされている。それ以前の寺院や城(グスク)からは朝鮮式や大和式の瓦が出土しているが、定着はしなかった。さらに、還元瓦つまり灰色の瓦から赤色の酸化瓦に変わったのは、遺跡からの瓦の出土状況などから、17世紀末頃だと推定されている。沖縄の気候風土に合致したことと、量産が可能だったことから、明式赤瓦は、以後の沖縄の建築に定着した。
 なお、日本では波型の桟瓦だけで葺く様式が広がったのに対し、沖縄では平瓦(女瓦)と丸瓦(男瓦)を組み合わせて葺く本瓦葺きの伝統が守られ、中国明代の『天工開物』に記されたそのままの瓦製造法が、近年まで伝承されていた。ここ20年ほどで瓦工場も機械化が進み、科学技術を適用した新しい瓦の開発も行われているが、従来の本葺瓦の評価と人気は今でも高い。
 また、沖縄の瓦葺きのもう一つの特徴として、目地に漆喰をふんだんに盛ることがあげられる。ムチと呼ばれる沖縄の漆喰は、15世紀頃建造と推定される首里城の古層の石垣にも使用された痕跡があるなど、かなり古くから用いられていた。珊瑚石を焼いて出来た石灰に、藁と泥を混ぜ、発酵させると漆喰ができるので、珊瑚礁の沖縄では、漆喰は比較的身近に手に入れることができる材料である。(漆喰については第二章で詳述する。)
 琉球王朝時代は、瓦奉行が置かれ、瓦の製造と瓦葺き作業は、カラヤーと呼ばれる専門家集団が担っていて、この体制は明治以降もしばらく継続された。
 しかし、1989年(明治22年)に、庶民の瓦葺禁止という規制がようやく解かれたことで、瓦の需要が増加し、カラヤーだけでは供給が追い付かず、壺屋で陶器を作っていた職人も、瓦を焼くようになった。そこで、壺屋でシーサーを作っていたヤチムンと 、カラヤーとの技術交流があり、漆喰でシーサーを作る習慣が生まれたという推察がなされている。しかし、中国福建省や台湾にも、200年ほど前に作られた漆喰製の獅子像があったという報告もあり、これらの地域から漆喰シーサーの概念と技術が伝わったとすれば、ヤチムンのシーサーとは独立して発生したという考察も成り立つ。
 漆喰シーサーの起源を検証するには、現時点では資料が揃っておらず、推論を巡らすことしかできないが、いずれにしろ、漆喰シーサーの発生は、赤瓦屋根の普及と密接な関係の上に成立したと言えるだろう。つまりそれは、庶民にも瓦葺が許されるようになった1889年(明治22年)前後だと推測される。
 そして、柳宗悦が、「余り沢山あり、粗末なものであるから、誰も真剣に顧みはしなかったが、 当然民間の彫刻として特筆さるべきものであらう。」と述べているように、昭和初期までには、漆喰シーサーは庶民の間に広く流布していたことがわかる。戦後になって、一旦はコンクリート建築に押され赤瓦の需要が減少、併せて屋根に載せる漆喰シーサーも衰退したが、赤瓦の通気性や断熱性、放熱性といった長所がしだいに見直されるようになり、また、1987年に那覇市立城西小学校が赤瓦を基調にした校舎に改築され、建築分野における全国レベルの賞をとったことで、沖縄独自の景観という文化的価値も再認識されるようになった。また1992年には、その象徴となる首里城が復元されたことを機に、コンクリート建築に瓦を葺く様式もあらわれるなど赤瓦の需要も増し、漆喰シーサーも息をふきかえした。
第3節 柳宗悦・民芸論と漆喰シーサー 
 さて、現代の暮らしの中において、漆喰シーサーは一般的にどのように価値付けられているのだろうか。 それを探るキーワードとして「民芸」という言葉があげられよう。那覇の国際通りでも、陶器や漆器など伝統的工芸品を扱う店で、「民芸品店」と冠する商店をよく目にする。商品として漆喰シーサーを取り扱っているのも、だいたいこの体の店である。そこで、漆喰シーサーの評価について、柳宗悦の「民芸」という言葉をキーワードに探っていきたい。
 大正から昭和初期にかけて、中央から地方へ眼を向ける動きが知識人の間に起こった。柳田国男の民俗学的手法によるフィールドワークや、 「民芸運動」を謳った柳宗悦などの活動である。
 それまで、雑誌「白樺」において、西洋美術の紹介と宗教論を展開させていた柳は、朝鮮で李朝の工芸美に出会ったことを契機に、民族の美、伝統の美、民衆の美に大きく心をひかれるようになる。そして、「今や日本固有のものの上に日本を再建すべき時代が到来したのである。今後も外国を学ぶことに怠惰であってはならない。しかし日本自らを学ぶことにもつと勤勉であってよいではないか。文化は国際的に拡げられると同時に民族的にも深まらねばならぬ」と語る通り、日本の独自の美を求め、地方へと眼を向けたのだった。
 明治になって入ってきた西洋美学が、無用の美、つまり美そのものだけを目的に、個人レベルで追求することを指標したのに対し、柳は、①無名の職人の手により、②生活に根ざした中で生まれる、実用を兼ね備えた雑器の中にこそ、日本の伝統美の正統があると主張し、それらに対して「民芸」という造語をあてた。それらは、一般民衆に普通に使用されるものなので、当然、大量に生産され、③廉価で販売される。つまり、民芸とは「民衆的工芸」の謂であり、素朴で力強い美を備えた日用工芸品のことをさす。柳はまた、それら民芸の美を、④自我のはからいを超えたところで生まれる「他力の美」であると解説した。
 そして、柳は戦前の沖縄に訪れ、首里の街並や、工芸産業など民衆の営みにいたく感銘を受け、まさに桃源郷を発見したような喜びをもって、以後の著作では「沖縄=民芸の島」と位置付けてさかんに紹介する。
 昭和13〜15年当時の沖縄は、琉球王朝時代の景観や風俗がまだそのままに残っていて、「近代化」を旗印に欧米志向を強める中央が見失おうとしていた、「自然で、人為的に歪められたところが少ない」暮らしぶり、「信仰が純一で、或る見えない霊の世界に対する感じが、まざまざと動」く共同体という、柳が追い求めていた理想郷が、あった。
 柳の訪沖から5年後、大平洋戦争で沖縄は地形も変わるほどの壮絶な戦場となった。その結果、20万あまりの尊い生命と、柳が賞賛した景観のほとんどすべてをも焼失してしまった。その後、27年間のアメリカ統治、そして本土復帰と、体制が移る中で、経済システム、工業生産システムなどのあらゆる社会的システム、価値観の劇的な変革を経てきた。
 そして、渡名喜明が「現代においては、無数の民衆によって安く、大量に作られる日常雑器はむしろ機械製品である。 そして大量生産による「もの」のはんらんに非人間性を見るからこそ、人びとは手作りの品を求めるのであるが、現在の経済・社会体制下では、手作りのよい品が高値を呼ぶのは必至である」と評するように、柳のいう意味での民芸は、現代社会においてはすでに壊滅状態にあると評している。
 実際、民芸品店と称する店に廉価で並んでいるのは、手作り「風」に見せかけた俗悪な機械大量生産品であり、場合によっては人件費の安い外国で作られたものを、「郷土みやげ品」としている例もある。熟練の職工の手作りのものとなれば、その刻印が押されることで付加価値が加わり、べらぼうに高い値段がつけられてしまっている。
 このギャップについては、柳自身も晩年の著作において、民芸を「一つの形式化したものにしてはいけない(中略)民芸趣味、民芸臭味となっては矛盾である。」と警鐘を鳴らしているのだが、現在の状況を省みれば、残念ながら柳の危惧した方向に、 民芸という言葉が定着してしまった感が強い。
  民芸という用語の誕生と用法の変遷をたどったが、ここであらためてムチゼークの作る漆喰シーサーの場合を考えると、 ①無名の職人が手早く作るものであり、魔除け、守り神という②生活に即した次元から作られるものであり、大量生産とは言い難いが、日当分の値段というのは③廉価と言えるし、何より、④祈りの気持ちがこめられているという特徴があげられる。
 実際に、現役のムチゼーク、大城孝祐棟梁は、出来上がった漆喰シーサーについて、造形的な評価をされてもまったく頓着せず、日当以上の報酬を要求することはない。師匠である父、孝栄から教わった通りに造り続けているのである。むろん、置く位置のバランスを考えたり、屋根の傾斜にそって顔の向きを調整したりと、意図的な要素ももちろん入るが、それは、あくまで「用」に仕えるデザインであり、自己の表現とか独創を図ったものではない。つまり、ムチゼークが作る漆喰シーサーは、柳がいう意味においての民芸に、現代においても十分該当するといえる。
 しかし、確かに、漆喰シーサーには魔除け・守り神という役割、実用があるのだが、「用の美」とはいっても、その形態自体には機能性はまったく求められない。その点において、漆喰シーサーの魅力を考えた時、民芸という言葉だけでは語り尽くせないものがあるということを感じる。つまりそれは、仏像のように細かく決められた造形上のルールもなく、作り手の遊び心や個性をそのまま表現しうる余地を十分に持っているところだ。そうした視点から見直してみれば、現代美術の用語であるアルテ・ポーベラとかパブリックアートといった言葉は、そのまま漆喰シーサーにもあてはまることに気付く。
 つまり、漆喰シーサーは、「民芸」という戒律に満ちた宗派の、現代においては希有なまでに敬虔な信徒でありながら、その枠におさまりきれない情熱=可能性を、持ち併せているのである。

第二章 漆喰シーサーの現在 

第1節 ムチゼークと漆喰シーサー
 漆喰シーサーは、ムチゼーク(もち大工=漆喰職人)が屋根瓦を葺き終えた後、魔除けなどの目的で、余った瓦片と漆喰で短時間のうちに仕上げるものである。 柳が「吾々にとって更に心を惹く理由は、それ等のものが全く民間のものであり、且つ無名な職人達のごく普通な世渡りの業だといふことにある。何も独創を誇る彫刻家の仕事ではなく、平々凡々たる月並みのものであって、而も之だけの創造力を鮮やかに示し得るその力に感嘆せざるを得ない。」と述べたように、ムチゼークにとっては、あくまで瓦葺きの作業の締めくくりであって、淡々と、しかししっかり魔除けとなるよう祈りを込めて、作り上げるものである。
 漆喰シーサーは、漆喰の素材としての性質を熟知した上で作らなければ、すぐに倒れたり苔むしたりしてしまうので、屋根に瓦を葺くのと同じ手順でやるべきで、 それには熟練を要する。また最後の仕上げ作業でもあるので、シーサーを作るのはほとんど棟梁であり、棟梁は見込みのある弟子にしかシーサー作りを伝授しないという。首里城の瓦を作り、施工を担当した㈲奥原製陶、奥原崇典社長は、首里城の瓦を葺く職人を探すために、全県のムチゼークの仕事を見てまわった。その中で漆喰シーサーをまともに作れる技術を持ったムチゼークは、1990年頃の当時、すでに皆高齢であったため、現在でも現役で活躍しているのは2、3名にすぎない。(ちなみに現在のムチゼークの総数は4、50名。) 
 家主が直接ムチゼークに依頼して屋根を葺いてもらう場合、ムチゼークはサービスで漆喰シーサーを作ったが、近年は、建設会社、瓦会社を通し、 ムチゼークは瓦会社から日当をもらう仕組みになっている。内地のゼネコンがもたらした効率追求のシステムが、作り手と使い手を遠ざける結果をともなってしまった。ムチゼークの現在の日当の相場が棟梁で1万5千円、弟子で1万2千円位だから、1日で作ったシーサーは1万5千円、2日で作ったシーサーは3万円ということになる。同じ大きさで民芸品店などに並んでいる漆喰シーサーが、10万円とか20万円するのに比べると格安だ。また最近では、レトロ趣味の顧客をターゲットにしてか、「昭和20年代のものです」などと札がつけられ、以前は屋根に載っていたであろう色褪せ苔むしたシーサーが、高値で売られているのも見かける。同じ漆喰シーサーでも、流通経路の違いによってまるで別物のように値段に反影してくる現象は、現代社会の価値観の多様性を端的に示していて興味深い。
 

(図3)「民芸品店」に並ぶ古いシーサー。 昭和20年代作


 次に、漆喰シーサーの分布について、1976年から78年にかけて、600体あまりの漆喰シーサーを写真に収めた大塚清吾の報告を引用したい。
 「離島よりも本島に多く、なかでも首里や那覇、それに糸満を初めとする南部の漁村に多い。丹念に探し歩くと太平洋側の海岸線、つまり南部の知念岬から与那原、中城、勝連半島と、中城湾を囲むように連なってある町や村にも多く見られる。それらは戦禍のために戦後生まれたものがほとんどであるが、中には一つ二つと戦争に生き残ったものもある。特に、勝連半島から海中道路でつながった平安座島や宮城島などでは戦前のものらしい古式な立派なものが目につく。本島北部のあたりにも、部落によってはおもしろいものがあって、大宜味村あたりではいかにも山原らしい素朴な雰囲気を醸し出しているものが見られる。(中略)離島で多く見られるのが久米島と石垣島、それに竹富島である。宮古島を初めその他の島々には少ない。このような離島での屋根獅子の増減は、貧富の差やまたはかつての首里カラヤーや那覇カラヤーの技術の流れが大いに関係しているものと思われる。」
このレポートから約20年経た現在でも、この分布状況は大きくは変わっていない。しかし、この間の変化として注目されるのは、名護市庁舎や那覇市立城西小学校 、新平和祈念資料館など、公共建築にも漆喰シーサーが設置されるようになったことである。つまり、地域の文化として認識されるようになり、しかも肯定的な評価が与えられ、積極的に取り上げられるようになったことだ。
 

(図5) 55体のシーサーが並ぶ名護市庁舎 1981年完成。 


第2節 漆喰シーサーの製法
 さて、著者は2000年9月上旬、奥原崇典から、漆喰シーサー作りの指南を受けた。ここでは、その制作の体験を元に、漆喰シーサーの本質的な作り方を、手順を追ってまとめてみたい。
  材料、道具
 まず、材料について、基本的には、①漆喰、②砂、③赤瓦の破片、これだけである。ムチゼークが屋根を葺き上げた後、残った材料で作るものなので、特に他に材料を準備しておくことは、かえって本質的ではないとも言える。むろん、歯やたてがみ部分に貝を用いたり、眼球にガラス玉を用いたり、装飾は自由であるし、着彩する場合は、墨汁、ペンキなどの顔料も用意しておく。また、作業の効率を高めるためには、骨の仮留め用に銅線があると良い 。
 道具も、基本的に屋根の瓦施工に使う道具と同じである。①鏝(こて)、②瓦金槌、③槽(ふね)、水を入れる④バケツ、⑤砂篩(ふるい)、これだけあれば十分だが、銅線を使う場合はペンチ、着彩する場合は筆、刷毛も準備する。
 なお、制作場所について、本来は漆喰シーサー作りもすべて屋根の上での作業であるが、この時は、風通しのよい場所にビニールシートを渡し簡易工房を設置、地上で制作した。雨が降ると漆喰が流れてしまうし、湿度が高いと乾きにくいため、ムチゼークは晴れた日にしか仕事が出来ないという不自由もあるが、漆喰の性質を考えれば、作業には屋外が適しているといえる。
  骨作り
 まず、骨(これは彫塑でいう芯棒にあたる)を組む。男瓦を2枚組み合わせ、胴体部分の骨を作る。縁を瓦金槌で砕いて、傾きを調整し、銅線で縛って固定する。
 次に女瓦を縦に4〜5分割し、形の良いものを2本選んで前足の骨とする。これを上記の胴体の骨に添える。基本的にこの3点で全体を支えることになるので、ぐらつかないようにしっかり銅線で固定しておく。後肢や臀部の骨となる瓦片も準備する。
 なお、屋根の上に載せる場合は、土台に女瓦を一枚敷いて漆喰で固定し、その上に胴体を乗せる。この時、胴体の傾き、顔の向きは、下から見上げてちょうどよい角度にする。「漆喰シーサーは顔で決まる」と語る大城孝祐の場合、下からは見えない後肢や臀部、背面は作らないこともある。
  荒付け
 荒付けは一層目の漆喰として、直接瓦に吸着するので、強度と接着力が重要であるため、漆喰:砂:セメント=2:2:1の割合で混ぜ合わせる(下地用漆喰モルタル)。ここで、砂はひび割れ防止用の骨材であり、セメントは膠着材と乾燥促進材を兼ねる。槽(ふね)の中で、水を加えながら捏ね、手頃な柔らかさにする。この下地用漆喰モルタルを、骨に塗り付けていく。まずは、瓦の継ぎ目にしっかり漆喰を盛り、瓦どうしを接着する。下地なので表面処理は気にせずに、鏝で手際よく塗りこんでいく。胴部の中の空洞に漆喰を詰め込む必要はなく、平瓦を適当なサイズにカットしたものを、蓋をするように乗せ、漆喰で閉じ込めばよい。後肢や臀部にも形に即して漆喰を盛り、好きな形で尻尾もつける。そして、平瓦を適当なサイズの方形にカットして、胴部の蓋をした瓦の上にさらに数枚、漆喰を塗って重ねる。口の大きさを考えて、その上下となる瓦を突き出すように積めば、それが上顎と下顎になる。さらに、頭になる部分に瓦片を数枚重ねると、シーサーの概形が見えてくる。荒付けの段階ではここまで出来れば良い。乾燥を待たないと次の作業に移れないので、初日の作業はこれで終わりとなる。
  中塗り
 乾いた荒付けの上に中塗りを施す。中塗りでは、砂はふるいにかけ大きな粒は除き、セメントも骨材の粒子が細かい白色のものを使用する。荒付けの時よりも漆喰の割合を増やして調合する。
 中塗りの段階で形をある程度整えていくが、荒付けよりもさらに厚く塗る必要がある時は、小さな瓦片を埋め込んでいく。耳や目玉、たてがみなどにも瓦片を入れ、漆喰だけで厚く盛り上げないようにする。(ひび割れ、欠落防止の為。)
  仕上げ塗り
 次に、仕上げ塗りを施す。仕上げ用の漆喰は砂を混ぜず、鏝板上で漆喰にセメント(仕上げ用)を少量混ぜながら、作業する。骨材が入っていないので、粘土と同じように細かい造形も可能である。ただしひびわれる危険があるので厚塗りは禁物である。
形が決まった後、半乾きの状態でスプーンの腹を押しあてて磨くと、表面が均されて光沢が出る。この表面処理をしておくと、乾燥後は水分が浸透しにくくなるので、かびやこけの発生を予防できる。これで形は完成だが、基本を習得すれば、自由な形でヴァリエーションの展開も可能である。
 

(図6) 荒付け(尾部)、中塗り(背部)、仕上げ塗り(前脚部)。


  着彩
 仕上げ塗りが半乾きの状態になったら、墨や水性ペンキで着彩、完成となる。
 なお、参考にした2つの文献 は1980年前後の記録だが、 着彩はいずれも、墨汁液の黒色と、赤瓦を泡盛で摺って作った朱色の2色のみで施していた。
第3節 素材としての漆喰について
 毎年のように台風が直撃する沖縄では、瓦をしっかり固定させる目地剤として、漆喰は必要不可欠である。また、もし破損した場合でも上塗りが効くので、修復が簡単にできる利点もある。そうした実用的な面に加え、景観的にも、赤瓦とそれを縁取る漆喰の組み合わせは美しく、赤と白のパターンの屋根が青空に映えるのは、絶妙の配色である。これらのことから、漆喰は、沖縄の風土、景観にマッチした素材であるといえる。また、環境ホルモンやシックハウス症候群などの問題が取り沙汰される今日、健康上の面からも、自然素材として見直されている。
 沖縄において、屋根の施工以外の漆喰の用法としては、船が木造だったころ、組板の継ぎ目に水もれ防止用として使用されていたし、現在でも、墓の扉石を開いて、また閉じる毎に、封をするのに用いられたり、沖縄独特の亀甲墓の曲線を造形する為に用いられたりと、多様な用途がある。
 短所としては、耐用期間がそれほど長くなく、5年もすると灰色味を帯びてくるし、屋根瓦の目地として機能を維持するには、ふつう12〜3年、長くても20年で塗り直す必要があり、メンテナンスが大変な点があげれるだろう。また、可使状態の漆喰は強アルカリ性のため、直接触れると肌が荒れる点もあげられるが、コテを使うことに慣れれば、さほど問題ではない。
 沖縄における漆喰の歴史、製法は、第一章の第2節において先述したが、世界的に見ると、エジプトのピラミッドに使われた例もあり、その歴史は5000年を遡る。古代ローマやギリシアの建築、そして万里の長城にも使用され、また、塑像彫刻の素材としても、後期ガンダーラや敦煌などで、技術的にも高いレベルの作品が作られてきた。ヨーロッパにおけるフレスコ画の伝統も、漆喰の材料と施工技術の応用といえる。
 日本においても、室町期、築城ブームの到来と共に、海草糊を使用する独特の工法が開発されて、それ以降、耐火性、耐候性にすぐれた仕上げ材として、建築文化を長い間支えてきた。明治維新の後も、煉瓦造や木摺りの上に何層も塗り重ねる本漆喰の工法として、洋館造りの内外装に使用されたりした。また、伊豆の長八の漆喰鏝絵、漆喰塑像は、特筆すべき応用例としてあげられる。
沖縄の漆喰シーサーは手早く作られるため、荒作りのものが目立ち、その稚拙さ、素朴さの中にこそ、あたたかみやおもしろさが生まれるという一般通念が成立している。しかし、だからといって、漆喰では細やかな造形ができないというわけではない。石膏直付けの技法と同様、漆喰が固まるまでに作業を手早く進めなければならないので、熟練を必要とはするが、手順さえ踏めば、ムネジラー(棟面)の美しい平面と曲線を出せる技術があるように、どんな細やかな造形でも可能な素材であるといえる。
 

(図7) 左の楕円形がムネジラー(棟面)。鏡面のような光沢がある。